イギリス留学日記

便所の落書き程度

思ってること

私は自然が好きだけども、エコ商品は嫌い。
私は自然が好きだけども、ベジタリアンヴィーガンになることが根本の解決になるのか、と言ったら疑問に思ってる。One-size-fits-all 的考え方は本当にいけ好かない
私は自然が好きだけども、人間も大好きです。人間も自然だから。
本当に、”美しい”という感覚は、”醜い”の対極にあるものなんでしょうか。
善と悪、本当に2択しかないんでしょうか。
どちらも併せ持つこの感情や感覚はどのようにしたら表現できるんだろうか。この感覚はとても日本人ぽいなと思うんですが、こうした限られた世界を生きて行かなきゃいけない状況になると、どうしたら良いのかわからなくなってくる。
 
日本人は古来より、森林的思考を持っていて、(事なかれ主義、そして超楽観的。なぜなら森に囲まれて生きてきたから。森とは生命の繰り返し。終わりがない。)逆に西洋人は砂漠的思考をもっている(アフリカ系つまり砂漠地帯からの移民が西洋地方に住み着いた。つまり砂漠的思考とは、延々と広がる砂の大地を生きるために旅をし、先の目的地に水があるか、ないかの判断が即時に必要である。そこに留まる、ということは死を意味する。そういう訳で輪廻転成という思想がない。)
だからアジア人は何かを考えるとき、座って物事考える(いわゆる瞑想)。
欧米人は、アイディアを練るとき、歩きながら考える。で、面白いことに、中国や韓国は日本よりよっぽど砂漠的思考。日本は東南アジアの思考に近いらしい。で、私は歩いている時の方がアイディアが出やすい(不思議だよね)。
これらの思考には、古来の環境・天気・宗教が密接に絡んでいる。でも日本も砂漠思考化に徐徐になってきている。逆に、森林的思考を取り入れようとする、西洋人が増えてきている。それはやはりどん詰まりの経済・政治状況・環境問題のせいなんだろう。
多分、人間は多かれ少なかれこんな事考えているうちに朽ちていくんだろうなと思う。そしてその刹那的に行きていく姿勢、その生き様を美しい、と思える感覚はものすごく日本的なんだろうと思う。改めて不思議な国だと思う。よくわからなくなってきた。いろんな論文を読んでいるけれでも、結局はなんなんだろう、と思う。でも、そこからがきっと人間の面白いところで、想像(創造)力が湧いてくるのかなとも思う。けどまだお先真っ暗ですね。自然の美しさとか畏怖とか、そう言ったものを対象としてモノを作るというのは、大変な挑戦だと思う。私は自然は友達だと思っていたのだけど、そうじゃないんだよな。残酷なんだよな。でも美しいんだよな。
東日本大震災で、女の子が津波で崩れた瓦礫の中で座り込んで泣いている写真があったけども、私はあれを見たとき、胸を締め付けられる悲しさうと切なさと同時に、美しくも感じた。特攻もこういう精神性から生まれてきたのだな、と心から思う。
こういうこと考えていると、段々と自分のエゴだけでモノを作りたくなってきてしまう。でもそれでもいいのかも。サステナビリティとか、デザインはソリューションだとか、そんな言葉で片付けらけるような問題じゃない気がする。なんだろう。
ただのメモ。