イギリス留学日記

便所の落書き程度

肩書き

本当は肩書きなんてどうでもいいと思っていたのだけど、ある程度自分のフィールドを振り返る為に、見直す為に、考えたほうがいいなと思って3年くらい考えてきたけど、ここでようやく答えが出たような気がする。

 

私はテキスタイルデザイナーでもなく、グラフィックデザイナーでもない。

でも何かエモーショナルな空間を提供できる人になりたい。

グラフィックデザイナーの原さんは紙にシンパシーを感じるという。

私は、やはり布にシンパシーを感じる。

なぜかわからないけど。元々肌が弱いからかもしれないし、素材については、昔から何かと敏感なように思う。

私には、お気に入りのタオルがあって、そのタオルを3〜4歳頃から使い始めて、21歳の時に捨てた。捨てた時はとても悲しかった。端っこもボロボロで、猫にも噛まれてて、フワフワの感触は一切なかった。元々は兄のものだったので、20年以上使っていた事になる。

そのタオルは、私にとってペットみたいなようなもので、ものすごく大事にしてた。匂いを嗅ぐとお母さんのような匂いを感じられて、悲しい時はよくそのタオルに顔を埋めていた。落ちつきたい時もほっぺにホワホワ当てたりしていた。(あんまり言うと変態ぽいが)

 

それを考えると、コミュニケーション・テキスタイルデザイナーという立場で活動してみてもいいのかな、と思った。

テキスタイルコーディネーターとはまたちょっと違うなと思う。

空間コーディネイトとしてテキスタイルをどのように使うか、というところのみでなく、過ごす人のエモーショナルな部分までデザインしたい。でも一過性のものでなく、その先はある人の生活に寄り添えるようなものであって欲しいと願う。私が使っていたタオルのように。

このところ、人に素材を聞かれたり、何が合うのか、と聞かれたりすることがあるのだけど、テキスタイルから人が受け取る感覚って、些細な事なようで実はとても大きな情報量だと思う。

それはやっぱり生活に密接しているからだと思う。

テキスタイル、というとファッションだ、と言う人がほとんどなのだけど、そうじゃない、もっと感覚的な部分をつめて、人の生活に寄与できるようになりたい。

一般的な市場とかだけでなくて、医療とか施設とかにも関わって行きたい。

それが私の目標かな、と最近とてもよく思う。

 

デザインの本質

何を武器にして戦っていくのか、と考えた時、私は日本の空間美、間に着目したいと思う。

日本の美しいものって”かたち”自体もそうなんだけど、その”かたち”を取り巻く空間、空気がどこかピンと張り詰めているように感じる時もあれば、フワッと柔らかく春の日差しのように感じられる瞬間もある。

茶室や床の間、というのはそういった四季や自然の美しさを空間の中に取り入れるという事を試みているわけだけど、その部屋や空間や間取りは自然の美しさを引き立たせるために、シンプル、かつ邪魔をしない構成になっていると思う。つまりよくデザインされているんだと思う。

sacaiのデザイナーが、日本の面白いところはMIXだと言っていた。

例えば高級街の銀座にも吉野家とかがあったり。そういう変なMIXが日本らしい、という。

だとしたら、日本人は固定概念とかなく、なんでも混ぜちゃうのが得意な性質を持っているんだろうと思う。しかも高いレベルで割と実現できちゃうっていう。

そこは勤勉だからかな。

 

こうした事から私がこの先何を土壌としてデザインして行くか、というと

・タブーを作らない

というのは一つ言える事だと思う。

でもこれはなんでも許すってわけじゃない。

それなりの審美眼は自分の中で培って行かないといけない。

 

もう一つは、

・育ってきた環境と自然観

を強みにしていきたいと思う。

 

うちには大工の棟梁だったひいおじいさんが造った大きな神棚が家にある。

別に何か特別な宗教に入っているという訳ではないが、なぜかうちにあるのだ。

物心ついた頃から、父や母がその神棚に向かって毎朝お参りしているところを見てきた。

晦日には1年納めていたお札を真白い紙袋に入れ、年が明けたら、歩いて数分の近所の神社に納める。

そして埼玉の毎年行っている神社に初詣に行き、御祈願を受けたあと、新しいお札を受け取るのだ。

小さい頃はその神社にいる池の亀に会いたいがためについて行ったり、屋台のあんず飴食べたさについて行ってた程度で、なんて事ない事だと思っていたが、こうして大人になると、とても意味のある行為だという事に気づく。

今思えば、私が空間に自然と興味を持った起源はきっとこういった経験からだと思う。フィールドが決まったのはきっと東日本大震災から。

家の神棚や神社やお寺に行った時に感じる、なんとも言えない緊張感や清潔感、そう言ったもの印象は森に入った時などの自然に近いものを感じる。

私はこういった事を人に感じ取ってもらえるような作品を作りたい。

ある場所に踏み入れた時に感じる、あの、息を飲む、美しい、感動する瞬間。

そうゆう感覚を届ける事を、自分の哲学としたい。

 

 

 

 

 

 

師走

色々グループワークとか卒論とかの事で疲れたりしてると、視野が狭くなる。

危うく西欧が嫌いになってしまうところだった。こうした私怨見たいのが蔓延して、戦争になっていくのかな、と思った。

過去の事は掘り返してもしょうがないけれども、それでもよくそんな口叩けるよな、と思うけどな笑 何様?とかも思うし。行動と発言が伴ってないところは本当に許せないな。まあそんなに人間強くないけど。

 

何かを標的にして攻撃する事はとてもすっきりするし、気持ちがいい。でもそんなようでは盗めるモノも盗めない。

人なんだから、ましてや言葉が違くて理解できなくて当たり前だと思う。

言い返せなくて余計にストレスが溜まる事はある。でもそれは不利でも何でもなくて、自分の身を強くする為でもあるかもしれない。些細な事は流そう。と思う。

それでも人だから、当たられたりするとやっぱり辛い。まあお互い様かな。

ハイブリッド最強人間になるには、まだまだ先が長いのだ。

そんで私は日本の美しいものが大好きだ。それは色んな人の価値の根底にあるモノでもあるから。

人を感動させたい。

 

そのためには歴史を学ぼう。(あ、でも器の狭い、馬鹿な人間の事は理解する必要なし)

自分の事も、他国の事も。

こうして見返した時に、この人みたいになりたい、デザイナーになるために軸、というかロールモデルみたいな人になれたら、そんな嬉しい事はないだろう。

いつでも偉人になった人たちは激動の世の中を生きてきた。

辛かっただろうけど、自分の事に集中してたはずだ。

それがいいかはわからないけども、自分の信念は大事にしたいと思う。

 

"西欧近代を問い直す"を読んで

今後、正直言って、今の世界の状態がよくなる事はないと思う。

なぜなら私たち自身がすでにもう西欧近代の思想に触れてるから。

でもそれを新しい途上国の人達に押し付けるのは違うし、てか今そこが議論されてるんだけど。

きっと「新しい普遍的な価値」とかは当分生み出せないでしょう。と筆者の方が言ってますが、本当にそうで。

でもじゃあ何を未来の子達に残せるのか、と言ったらそれはもう、自分の国の良いところは、自分の良いところでもあるので、その視点を常に持っていてね。という事かなあ。そして逞しく生きて行くしかない。色んな価値が蔓延る中で。

あなたは何をしていると生きてると感じるのか。

私は人間との関連性を考える事で生きてる事を実感する。

私の場合のツールは創作だな。まあ繰り返すけど、努力するしかない。

 

とは言っても人間は、腹減るし、お布団で寝たいし、姪はかわいいし、家族も好きだし、友達も大事だし、生きるしかないから、フィッシュアンドチップス食って、明日は寿司食って、明後日はハンバーガー食って、これってどうなん?ということを考えて創作を継続していけるように頑張っていくぞ!

いつか私たちの思想がまじで本当にゼロのゼロから始まり、何だろう?なんか色んな形で続いて行ってくれますように。
でもこのテーマは頭に入れとこうと思う。多分これを放棄したら、生きてるのも、死んでるのも同じだ。
バーチャルの世界でもリアルの世界でもその差はなんなのか?

なんてそんなん個人で決まるからなぁ。だからやっぱり今を生きる。目の前の事に努力するのは当たり前だと思う。何が新しいかとかなんてそんなん時代によってちゃうし。

結局西欧文化はAI、インターネットというものを利用してまた世界を導きたいだけなのでは…
AIを第二の神として崇めたくなっちゃうのかなぁと、イギリスにいてヒシヒシと感じるのであった………
でもこんな汚い、というかやりきれん世界にも、たのしいと感じれることがあって
それは人を介してじゃないと人は理解できないのかもねぇ。。。人は。

『人間』ねえ。


私が自然に見出されるのも単なる宗教的バックグランドでしかなかったという事で、面白すぎちゃうwwwwwwww
でも私は人間が好きなので、感動してもらえるものを追求するよ。
感動はきっとこういうくだらないこと(権威とか金とか主義とか思想とか私たちが勝手に創り出したもの、今まで追求してきたもの)を忘れさせてくれる優しい手段だと思いたい。
忘れるのは悪いことじゃない。と思う。
芸術はHOPEだろ。
いつの時代も苦しんだ人たちがなんとか次にたくせるようにって生み出した人間なりの悲しい?手段なのかもね。
そういうものなんじゃないか?

〇〇主義

結構気になることがあるんだけど、なんですぐに〇〇主義とか言って人と繋がりを求めようとするんだろうか?

割と不思議な光景です。

人は母親という体から一人で生まれて、一人で死んでいく。普通に考えたら誰も道連れにする事はないので、帰結する場所は自分なんだけど、よくわからんね。

生きていくには人の助けが必要だからな。

でもそれも結局コマでしかないんだろうなあ。

それが強烈かそうじゃないかの差があるだけで、色々うまいことやって生きてるんだと思うんだけど。

 

でもそう思うと私は寂しい人間なのかもしれない。

こうしたら人はこう思うってのがわかる、というか、仕向ける事ができるから。

それを忘れないようにしないと、とんでもない事平気でやれる人間になってしまうかも。

デザインがあってよかったと思う。

これもまた私が人間の歴史や思想に依存している証拠なのかも。

でもそれも別に悪い事じゃない。

だから私は人間に興味がある。

たまたま創るのがハマっただけだと思う。

創ったモノで人がどういう反応するのか。どんな部分に感動するのか。

それをテキスタイルと空間を通して試したい。

そして色んな価値を知りたい。

色んな考え方を知りたい。

知ってどうするのか。

新しい物語を紡ぎたいだけなんだな。

つまりいわゆる自己中心的な価値観になるんだけど、それはちょっと違うのかも。

これが私の自我なんだろう。

どんな遺伝子からきたんだろう?

もしかしたら私のお母さんは社会的にはお母さんだけど、遺伝子的にはただの媒体にすぎないのかも。

そうすると確かに家庭を持つのは効率が良い事だ。遺伝子を残すと言う点では。

 

なので、私の遺伝子は次を残せない、または、残したいと思わない遺伝子なのかも笑

その意志がない遺伝子なのかもしれん笑

それかたまたま1回のセックスでできた奴がこの世まで残っちゃったのかも笑

だって本当に好きな人とかおらん。人間に興味はあるけど。

とにかく技術身につけて自分の好奇心のために使うしかない。

だって今の私を生きれるのは私しかおらんので。

遺伝子は生き残れないかもしんないけどね。

 

もう一回言うけど、これは自己中とは違うと思う。

正当化でもない。

だって何かを無駄にしたり、いじめたりするのは、ただただ胸糞悪いから。

品がないから。

美しくないから。

 

美しいって言う概念もよくわからんけど、そこを人に見せて

認識してもらえたら、私は私として、生きてるな、と感じられる。

それが欲しいし、知りたい。

何がキーなのか。

 

そして私はこれはテクノロジーとか考えてる次点では多分わからないと思う。

なんかもっと根源的な、プリミティブなモノだと思う。

それはミトコンドリアの願望かもしれない。

今こう考えているのも、何と空虚な事だと思う。

でもそこが面白くて、愛しい。

私が本当に途上国に興味があるのは、この好奇心からだけかもしれない。

そう思うと残酷だよな。同じ事しちゃうかもしれないんだもんよ。メソッドは違えど。

そう考えると、人間は度し難い、というのが心底理解できる。

 

デザインとかアートってこう言うしょーもない馬鹿が生き残っていける為に生み出されたモノだと思う。

なので感謝したいです。

どうもありがとう。こう言う分野を生み出してくれた先人の人達。

とても生きてる感じがして、承認欲求が満たされます。”創る”という行為から。

私はまだ満たされていません。なので、努力します。

死ぬというのはただ肉体的にそれが止まるなだけなんだと思う。

 

でももちろん家族も友達も大好きです。

もし死んだら悲しくなります。話してるとホッとします。愛しい、と思います。

私はそこが不思議でしょうがない。そしてどれくらい人のその後に影響があるのかも。

だから空間に興味があるのかな。

 

 

大学院に入って1s termが終わった。

成績は正直作品は1番上の評価取れると思ってたくらい隙なく詰めてきたので、それが叶って嬉しい。それは当たり前ではないので、ここまでのラインはOKという事と、突き詰めて行こうとしている感覚が他の国の人にも理解してもらえてる方向性であるという事、でもそれはつまり次の指針をまた一つ上に持って行かないと、「次はない」という事である。

それなりに、というのは作品制作においては絶対あってはならないと思う。

プレゼンに関していえば、考えている事、そしてそれを削ぎ落として言いたいことの上澄だけを拾って伝える努力をしなくてはならない。

それには時間を要する、というよりもブレない自分の軸がどこにあるのか、という事を毎回意識しないといけない。忘れがちになるから。

それがプレゼンにおいてわかりやすく伝えるための方法だと思う。現状には全然満足していないので、自分なりに工夫して、どうにか世に出る努力を続けて行きたい。

世に出るとは、自分に取ってどういう事なのか?お金が欲しいのか、有名になりたいのか?

私はやっぱり人を感動させたい。

感動する、というのは何かに興味を持つきっかけにもなるし、まだ私は生きてて大丈夫なんだとか思えるきっかけにもなるかもしれない。

感動する、とはなんだろうか?

その形もすごく、すごく曖昧。

イノベーションが曖昧なのと同じように。

何かの化学反応で起こる事。

だけどその何かの化学反応の材料である「何か」はめちゃくちゃ真剣に選ばないといけない気がする。それをどうやって形にするか。

で、その何かって多分大体普通の人が気づかないような事をヴィジュアル化する事。

それを発見する事で、いろんな人と共有する事ができたらいいなあ。

 

 

いいデザイナーになる

いいデザイナーとはなんだろうか。

自分の大義を他人にわかってもらえる人。説明できる人。だと思います。

言葉であれ作品であれ。

人に理解してもらうには実績が必要です。(ここは頑張らないといけないところ。そして運と縁も大いに関係すると思う。)

 

普遍的な感覚を追うということは、人間が人間たる所以だと思う。

そしてそこに感動できるのもまた人間だけ。

私は人を感動させたい。

感動は、美しいことはもちろん畏怖や尊敬も含まれてる。

儚いという事も。

命のきらめきを感じられるから感動する。

感動は希望だと思う。だから日常の小さな事や記憶や思い出を表現したい。

それは人にとって普遍的な事だから、人に与えるインパクトも普遍的だと思う。

 

スペキュラティブデザインて欧米文化の真骨頂だと思う。

私は日本人なので、日本の思想を持っていて当たり前だし、美しいと好きだと思えるのも当たり前。

でもそれだけでは自然淘汰に負けて行くから、こうして海外にきて勉強してる。

なんにせよ適応力の高さは今後の武器になるのは当たり前で、じゃあ、そこで私ってなんなのよって。私の持ってる日本人の思想ってなんなのよって。それを武器にして戦ってもいいと思う。それってもう違う視点持ってるって事だからね。なので、掘り下げたい。